2012年06月25日

いきあたりばっ旅~淀川のおしまい「伝法大橋」

 この話は「いきあたりばっ旅~淀川の始まり『瀬田川大橋』」の後段である。

 瀬田川の果ては大阪湾。
 瀬田川、宇治川、淀川と名を変えて琵琶湖の水は大阪湾に注ぎ込む。

 淀川にかかる歩いて渡れる最後の橋が伝法大橋である。国道43号線が浜側に重なるように架橋しているので海側は見渡せない。見晴らしは悪い。数十メートル離れた上流には阪神なんば線の鉄橋がある。都合3本の橋が集中している。
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 見晴らしは悪いが「淀川にかかる最初の橋と最後の橋を渡りたい」と決めたことなので淀川の最下流の伝法大橋を南側から渡った。気になったのは少し上流を走る阪神なんば線である。長年、大阪に住んできたのに、西大阪線の時代も含めて、一度も乗ったことがないかもしれない。
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 ということで橋を渡ったあと、大橋北詰の福町駅から南詰めの伝法駅まで一駅乗ってみた。他日、ドーム前駅から尼崎駅まで乗車した。

 思えば、今、渡っているこの「新」淀川は昔、なかった。川そのものがないので橋も架かっていなかった。新淀川は明治18年、大阪が大洪水に見舞われたあと人工的に作られた流れである(完成は明治43年)新淀川の開削工事は琵琶湖、瀬田川、宇治川、木津川を巻き込んだ明治国家渾身の一大プロジェクトだった。そのスケールの大きさと整合性には驚かされる。志しの高さが分かる。新淀川をまたぐ伝法大橋はそれから遅れること数十年を経、昭和17年に完成した。これほど遅れたのは戦争に熱中したせいである。志しの違いが分かる。

 江戸時代には「新」淀川を渡る橋はなかった。しかし伝法川という川はあり、それを渡る伝法橋という橋もあった。今の伝法大橋とは別物である。その伝法川も「新」淀川の開削工事の際に本来の流れを失った。
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 今、その終焉の地に立つと「伝法川跡」の石碑がある。伝法川に沿って通っていたと思われる尼崎街道は新淀川の堤防でぶち切れるように終わっている。
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 新淀川開削工事のために作られた長柄運河も今は干上がっている。NHKで始まった「ええトコ」の第1回目で取り上げられた浜中津橋は長柄運河、別名中津運河にかかっていた橋である。わたしが子どもの頃には流れもあったがいつからか乾上がった。今は暗渠だという。

 その中津運河の下流に正蓮寺川と六軒屋川がつながっていたのだが、正蓮寺川は阪神高速淀川左岸線を通すために埋め立ててしまった。ここも地下にトンネルを通して車と水を流す計画だという。
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 わずかに残った伝法川は伝法閘門を境にして新淀川につながっている。伝法閘門とその対岸にある西島閘門を結ぶ航路は「尼崎航路」と呼ばれ、尼崎の発展に大きな役割を担ったそうである。
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 大正4年の大阪毎日新聞には次のような記事が出ていた。

 ~この尼崎航路というのは、淀川改修の際に随分莫大の金と手数を掛けた水路である。尼崎通いの舟が安治川から逆川を溯って六間屋川へ出ると其処に六間屋閘門がある。工費十二万円投じた大規模のもので其処から正蓮寺川に出ると、この川は海との連絡を全く断切って真個の尻無川になって居る。その支流が伝法川であるが、これが閘門によって新淀川と連絡して居るのである。この閘門を通過した船は直路新淀川を横断して対岸の西島閘門に影を潜めるのであるが、この辺の川幅は約四百五十間、西風の吹き荒む時には随分波は荒いのである。新淀川の幅員というのは枚方の下流佐太という処で丁度三百間の広さであって、それから川下は一町毎に一間ずつ広げて西島閘門の処が四百五十間になって居る。此閘門から尼ヶ崎までは神崎川の支流が、或は西島川となり、或いは中島川となり、又は中島裏川となって居る。この間を紆余曲折して尼ヶ崎に行くのが所謂尼ヶ崎航路である。何故にこんな不便な航路を取って居るかというに、海上の風波を恐れるのと、も一つは例の入津料の厄介にならぬがためである。新淀川の保護に就ては尼崎町民も決して余所事と思うて居てはならぬ。~

 おそらく伝法大橋が出来るまでの間、旧の尼崎街道が新淀川によって寸断された間をこの閘門から出入りする渡船が代替輸送を行っていたのであろう。
ラベル:大阪 淀川 散歩
posted by 4tako at 21:56 | TrackBack(0) | クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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